・・・「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・鴎外が董督した改訂六国史の大成を見ないで逝ったのは鴎外の心残りでもあったろうし、また学術上の恨事でもあった。 鴎外が博物館総長の椅子に坐るや、世間には新館長が積弊を打破して大改革をするという風説があった。丁度その頃、或る処で鴎外に会・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 夫は、うなずいて、なんの心残りもなく、ついにこの世を去ってしまったのです。 女は、また一人になりました。そして、たよりない日を送らなければならなくなりました。村の人は、この不しあわせの女に同情をしました。「まだ若いんだから、い・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもいや、さしみや肉類もほうれん草も厭、何か変った物・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・きて、女は、ひゅう、ひゅう、と草笛の音に似た声を発して、くるしい、くるしい、と水のようなものを吐いて、岩のうえを這いずりまわっていた様子で、私は、その吐瀉物をあとへ汚くのこして死ぬのは、なんとしても、心残りであったから、マントの袖で拭いてま・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・なぜだか、そんな気がして、私には心残りが無い。外へ出ても、なるべく早く帰って、晩ごはんは家でたべる事にしている。食卓の上には、何も無い。私には、それが楽しみだ。何も無いのが、楽しみなのだ。しみじみするのだ。家の者は、面目ないような顔をしてい・・・ 太宰治 「新郎」
・・・騒々しい、殺風景な酒宴になんの心残りがあって帰りそこなったのか。帰りたい、今からでも帰りたいと便所の口の縁へ立ったまま南天の枝にかかっている紙のてるてる坊さんに祈るように思う。雨の日の黄昏は知らぬまに忍び足で軒に迫ってはや灯ともしごろのわび・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・自分の生涯や仕事について心残りの多いのは言うまでもない事だ。それでも私は静かに死ねるだろうか。黙って運命に頭を下げる事ができるだろうか。―― 私はこうして自分を押しつめてみた。そうして自分にまるで死ぬつもりのないことを発見した。「今死ん・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫