・・・余が修善寺で生死の間に迷うほどの心細い病み方をしていた時、池辺君は例の通りの長大な躯幹を東京から運んで来て、余の枕辺に坐った。そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと云った。医者に騙されたという彼は、固より余を騙すつもりでこういう・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・、と心細いこと限りなし、ああ吾事休矣いくらしがみついても車は半輪転もしないああ吾事休矣としきりに感投詞を繰り返して暗に助勢を嘆願する、かくあらんとは兼て期したる監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかり抑えているから乗りたまえ、おっとそう真・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉であった。私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・なぜそんな心細いことをお言いなさるんですよ」と、吉里の声もやや沈んで来た。「心細いと言やア吉里さん」と、善吉は鼻を啜ッて、「私しゃもう東京にもいられなければ、どこにもいられなくなッたんです。私も美濃屋善吉――富沢町で美濃善と言ッちゃア、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・況や家道は日に傾いて、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いた例が無い。其他種々の苦痛がある。苦痛と云うのは畢竟金のない事だ。冗い様だが金が欲しい。併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りッこは無い。・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなるほど村も淋しくなる、心細い様ではあるがまたなつかしい心持もした。山路にかかって来ると路は思いの外によい路で、あまり林などはないから麓村などを見下・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 病気になった時、親にはなれて居るほど心細いものはあらへん。 汽車賃位いどうでもしまっさかい。「私が行く様んなったら汽車代だけやすまん。 お金奴、あらいざらいの勘定をさせる魂胆なんやから、素手でも行かれんわな。 お節・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿の若狭屋へ往って、色々問い質したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確としたことは分からぬらしい。只酒井・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩れる、小さい燈の光を慕わしく思って見て通ることであろう。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・聴衆に冷笑されたりしようものなら、日本人が皆非国民になってしまったような心細い感じが起こるであろう。そうすれば今よりもいっそう不安な、不愉快な気持ちになるに相違ない。そういう結果を導き出すためにわざわざ警衛や宣伝に出てくる必要は果たしてある・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫