・・・君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡て浅薄である、虚偽で・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・人目を忍び、露見を恐れ、絶えずびくびくとして逃げ回っている犯罪者の心理は、早く既に、子供の時の僕が経験して居た。その上僕は神経質であった。恐怖観念が非常に強く、何でもないことがひどく怖かった。幼年時代には、壁に映る時計や箒の影を見てさえ引き・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・松が忍び足のように鳴った。国分寺の鐘が陰にこもって聞こえてくるようになった。 こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘していた。彼にはま・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・実に忍びないからだ」「いや、いや、私ゃ否ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・これをも忍びて塵俗の外に悠々たるべしとは、今の学者に向って望むべからざることならんのみ。 右の次第にて、学者の栄誉を表するがために位階勲章を賜わるは、まことに尋常の事にして、政府の官吏にのみこれを賜わるの多きこそ、かえって人の耳目を驚か・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
夜半にふと眼をさますと縁側の処でガサガサガタと音がするから、飼犬のブチが眠られないで箱の中で騒いで居るのであろうと思うて見たが、どうもそうでない。音の工合が犬ばかりでもないようだ。きっと曲者が忍びこんだのに違いない。犬に吠えられないよ・・・ 正岡子規 「権助の恋」
・・・そして、いつぞやの早まわりで賞品としてもらった小型フォードにのりこみ、ミュンヘンに潜入し、危険をおかしてひとたびはすてた家に忍びこんだ。そして原稿を盗み出し、真夜中に、もう二度とみる希望のないその家を去った。 二・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、拡り始めたようだった。とにかく、祖国を敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼の生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・潰滅よりもさらに烈しい苦痛を忍び、忘却が到底企て及ばざる突破の歓喜を追い求むる者こそ、真に生き真に成長する者と呼ばるべきであった。心が永遠の現在であり、意識の流れに永遠が刻みつけられていることを、ただこの種の人のみがその生活によって証明する・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫