・・・ 僕は今、そのことを思い出す。 親爺は、六十年の経験からそんなことを云ったのだろう。 黒島伝治 「小豆島」
・・・というような事ですから、今思い出すとおかしくてならんような争い方を仕たものです。或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・と云ったあのお母さんを直ぐ思い出すことが出来るね。スパイの連中が帰りがけにストーヴのお礼を云ったら、「そッたらお礼ききたくもない。それよりお前さんらサッサとこの商売をやめねば、後で碌でもないことになるよ。」と云ったので、秀夫さんまでそれには・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・へ詫び入り元のわが家へ立ち帰れば喜びこそすれ気振りにもうらまぬ母の慈愛厚く門際に寝ていたまぐれ犬までが尾をふるに俊雄はひたすら疇昔を悔いて出入りに世話をやかせぬ神妙さは遊ばぬ前日に三倍し雨晨月夕さすが思い出すことのありしかど末のためと目をつ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・わたしはその前を往ったり来たりして、曾て朝顔狂と言われたほどこの花に凝った鮫島理学士のことを思い出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釈を聞かせて呉れたあの理学士の声はまだわたしの耳にある。今度わたしはその人の愛したものを自分でもすこしばかり植えて・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ ――まけおしみ言わなくっていいの。思い出すでしょう? どう? ――くだらんことを言うな。たしなみの無い女だ。 ――あら、どっちが? やっぱり、こんどの奥さんにも、あんなに子供みたいに甘えかかっていらっしゃるの? およしなさいよ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ある寺の裏庭に、大きな白躑躅があって、それが為めに暗い室が明るく感じられたのを思い出す。 僕の大きくなった士族町からは昔の城跡が近かった。不明門という処があった。昔、其処に閉じたままの城門があったので、それで名に呼ばれて居るのであるが、・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。 音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・といわれた渡場を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。 冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いは・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾うから知っている。「御夢・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫