・・・不思議な感激――それは血のつながりからのみ来ると思わしい熱い、しかし同時に淋しい感激が彼の眼に涙をしぼり出そうとした。 厠に立った父の老いた後姿を見送りながら彼も立ち上がった。縁側に出て雨戸から外を眺めた。北海道の山の奥の夜は静かに深更・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼を開いて、あてどもなく一所を睨みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆが・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ある寒い夕方野こえ山こえようやく一つの古い町にたどり着いて、さてどこを一夜のやどりとしたものかと考えましたが思わしい所もありませんので、日はくれるししかたがないから夕日を受けて金色に光った高い王子の立像の肩先に羽を休める事にしました。 ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・五十円や六十円の家賃で、そう思わしい借家のないこともわかった。次郎の出発を機会に、ようやく私も今の住居に居座りと観念するようになった。 私はひとりで、例の地下室のような四畳半の窓へ近く行った。そこいらはもうすっかり青葉の世界だった。私は・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔になって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・その日その日に忘られて行くわけもない物思わしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。 その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ 田地の事、作物の事、小作男の不平やら、思わしい収獲を得ない田畑の物などの話は聞いても、それは只、話す人の気休めのために話すので私に相談する事はない、私の聞いても喜ばない事は聞かずに居られる、幸福な事だ。 一俵まけてくれ、と菊太が願・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・みのえは、後じさりにそろそろ上の坂の方へ出ながら、組打ちした場所と思わしい辺をちょいちょい見た。リボンで帯につけていたエァーシャープを彼女は振り廻したのであったがそれが環のところかられてどこへか行ってしまった。 小僧は、じろじろみのえの・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
出典:青空文庫