・・・これは申すまでもなく、私の神経の迷かもしれませんが、あの先を急ぐ赤電車の車掌が、どうして乗る人もない停留場へ電車を止めなどしたのでしょう。しかもこんな目に遇ったのは、何も私ばかりじゃなく、私の知人の間にも、三四人はいようと云うのです。して見・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
青黄ろく澄み渡った夕空の地平近い所に、一つ浮いた旗雲には、入り日の桃色が静かに照り映えていた。山の手町の秋のはじめ。 ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 先を急ぐ。……狂言はただあら筋を言おう。舞台には茸の数が十三出る。が、実はこの怪異を祈伏せようと、三山の法力を用い、秘密の印を結んで、いら高の数珠を揉めば揉むほど、夥多しく一面に生えて、次第に数を増すのである。 茸は立衆、いずれも・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・こんな山の中で休むより、畑へ往ってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。 十年許り前に親父が未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
汽車がとまる。瓦斯燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。 日和下駄カラカラと予の先きに三人・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ すると、かもめは、急ぐ翼をゆるくして、からすとしばらくの間道連れになりました。「私は二、三日前に、ずっと南の都から出立しました。去年の冬はにぎやかな都で送りました。もう夏になって、北の海が恋しくなったので帰るところですよ。」と、か・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・帰りを急ぐのも早くお母さんのお顔を見たいためでした。たゞ、家へ帰れば、その願いがとどくと信じたのに、「お母さん、只今」と、呼んでも、お母さんの返事がなかったら、その時は、どんなであろうか。二たび呼んで見る、三たび呼んで見る、その時の失望・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・攻撃の速度を急ぐ相懸り将棋の理論を一応完成していた東京棋師の代表である木村を向うにまわして、二手損を以て戦うのは、何としても無理であった。果してこの端の歩突きがたたって、坂田は惨敗した。が、続く対花田戦でも、坂田はやはり第一手に端の歩を突い・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南河内の狭山へ出掛けた。 寺院に掛け合って、断られたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借り受け、襖を外して、ぶっ通しの広間をつくり、それを会場にした。それから、「仁寄・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫