・・・酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然いうだけで、何遍話をしても諾といわない。 そこで阿母さんも不思議に思って、娘・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言った。怪しいもんではない、ということを知ってもらいたいために叫んだ。しかし犬にはわからなかった。う、う、と唸りながら起きあがると、毛を逆だてて、背中をふくらませて近寄ってきた。私が一と足さがる・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・上れば上るほど怪しい心持が起りそうであるから。 四階へ来た時は縹渺として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通し・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・今朝催促したら、明日まで待ッてくれろッてお言いだから、待ッてやることは待ッてやったけれども、吉里さんのことだから怪しいもんさ」「二階の花魁で、借りられない者はあるまいよ。三階で五人、階下にも三人あるよ。先日出勤した八千代さんからまで借り・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなるほど村も淋しくなる、心細い様ではあるがまたなつかしい心持もした。山路にかかって来ると路は思いの外によい路で、あまり林などはないから麓村などを見下・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・私は足もとの小さな苔を見ながら、この怪しい空から落ちて赤い焔につつまれ、かなしく燃えて行く人たちの姿を、はっきりと思い浮べました。老人はしばらく私を見ていましたが、また語りつづけました。「沙車の春の終りには、野原いちめん楊の花が光って飛・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ これは雨が何しろ樋をはずれてバシャバシャ落ちる程の降りの日のことだが、それ程でなく、天気が大分怪しい、或は、時々思い出したような雨がかかると云うような日、一太と母親とにはまた別な暮しがあった。稼ぎというのが正しいのだろう。やっぱりその・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・丁度その時広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。 九郎右衛門の足はまだなかなか・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・常より物に凝るならい……いかにも怪しい体であッたが、さてもおれは心つきながら心せなんだ愚かさよ。慰め言を聞かせたがなおもなおおもいわびて脱け出でたよ。ああら由々しや、由々しいことじゃ」 心の水は沸え立ッた。それ朝餉の竈を跡に見て跡を追い・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「いよいよ怪しい。」 姉は梁の端に吊り下っている梯子を昇りかけた。すると吉は跣足のまま庭へ飛び降りて梯子を下から揺すぶり出した。「恐いよう、これ、吉ってば。」 肩を縮めている姉はちょっと黙ると、口をとがらせて唾を吐きかける真・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫