・・・この危機を恐れるならば、他人に対して淡泊枯淡あまり心をつながずに生きるのが最も賢いが、しかしそれではこの人生の最大の幸福、結実が得られないのであるならば、勇ましくまともにこの人生の危機にぶつかる態度をもって、しかしそれだけにつつましく知性と・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 本隊を離れてしまった彼等には、×の区別も×の区別もなかった。恐れる必要もなかった。××と雖も、××の前には人間一人としての価値しかなかった。そして、××は、使おうと思えば、いつでも使えるのだ。九時すぎに、薪が尽きてきた。浜田は、昼間に・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・百姓達には少しも日本の兵タイを恐れるような様子が見えなかった。 通訳は、この村へパルチザンが逃げこんで来ただろう。それを知らぬかときいているらしかった。 いくらミリタリストのチャキチャキでも、むちゃくちゃに百姓を殺す訳にや行かなかっ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・颶風なぞを恐れる世界だから悲しいよ。それで物理学者でござるというのが有る世間だからネ。浪は螺状をなして巻き巻き進むのだよ。まだ沢山例はある、さてこれからがいよいよ奇だよ。物は或勢力に逐いやらるる時は螺線的運動をするという真理は、すで・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・若い妻が訳もなく夫を畏れるような眼付して、自分の方を見たことを思出した。彼女の鼻をかむ音がよくこの部屋から聞えたことを思出した。 今居る書生の一人がそこへ入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・「それではもう、何も恐れる事は無い。私も大威張りで媒妁できる。何せ相手のお嬢さんは、ひどく若くて綺麗だそうだから、実は心配していたのだ。」「まったく。」と私は意気込んで、「あいつには、もったいないくらいのお嫁さんです。だいいち家庭が立派・・・ 太宰治 「佳日」
・・・――まだ、まだ、言いたいことがあるのですけれども、私の不文が貴下をして誤解させるのを恐れるのと、明日又かせがなければならぬ身の時間の都合で、今はこれをやめて雨天休業の時にでもゆっくり言わせて貰います。なお、秋田さんの話は深沼家から聞きました・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それを知っていながら、私は編輯者の腕力を恐れるあまりに、わななきつつ原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函するのだ。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。その後の、悲惨な気持は、比類が無い。 私はその日も、私の見・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出す機会がある。 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。 頭のいい人には・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
出典:青空文庫