・・・誰れに恐れる事も諛う事も入らぬ、唯我独尊の生涯で愉快だろうと夢のような呑気な事を真面目に考えていた。それで肺炎から結核になろうと、なるまいと、そんな事は念頭にも置かなかった。肺炎は必ずなおると定ったわけでもなし、一つ間違えば死ぬだろうに、あ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立って居る杉の茂りが、一層其の辺を気味わるくして居た。杉の茂りの後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人通のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになって呉・・・ 永井荷風 「狐」
・・・尤も迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切れないでしょう。其所にその人の自信なり、確乎たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。だから親・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・副業が本業になることを恐れるためである」その問題は、それらの純朴な村の娘たちが一心に精密加工をする作業場を村営とするか、個人に対して多すぎる分は村へ寄附すればよいと解決されたのであった。 この間の消息を詳細に眺めると、やはりそこには無量・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・の広告として「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何があるか。若しその底に何もなかったら人生の可能は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた。」といっている。その「人生の可能」の一つとして定子に対する葉・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・伸び伸びと何者も恐れることはなく、自分の力をもって生きて行かなければならないのであります。ですから、みなさんも、さきほどから、いろいろと纏らない話をお聴きになっていらっしゃいますけれども、幸福に生きたい、という希望があるならば、まだ咲かない・・・ 宮本百合子 「幸福について」
・・・ 間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近した地点を撰ぶと、その腐敗した肺臓のために売れ残って腐り出しただけの魚の山を、肥料として積み上げた。忽ち蠅は群生して花壇や病舎の中を飛び廻った。病舎・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・八 私は誤解を恐れる。そしてその恐れを愧じる。私はその恐れに打ち克たなくてはならない。 もとより誤解は不愉快である。できるならばそれを解きたいと思う。ただ言葉の間違いや事件の行き違いのほかに根のない誤解ならば、解くことも・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・こうもりが光を恐れるように倫理的な苦しみを恐れる。それゆえに、「一生を旅行で暮らすような」彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けて休みたい、ある土台を得たい」という心を起こすのである。そうし・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・それを恐れるのは自分の独立と自由とが完全でない証拠に過ぎないから。自分が人を欲する時には人を征服して自分に隷属せしめる。自分の愛は、常に、自分を完成する要素としての人間に向う。自分は淋しさや頼りなさを追い払うために友情を求めたりなんぞはしな・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫