・・・私は匂いの逃げるのを恐れて、カーテンを閉めた。しかし、その隙間から、肌寒い風が忍び込んで来た。そして私のさびしい心の中をしずかに吹き渡った。それが私を悲しませた。 一週間すると、金木犀の匂いが消えた。黄色い花びらが床の間にぽつりぽつりと・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・それでも時には、前の坊主山の頂きが白く曇りだして、羽毛のような雪片が互いに交錯するのを恐れるかのように条をなして、昼過ぎごろの空を斜めに吹下ろされた。……「これだけの子供もあるというのに、あなたは男だから何でもないでしょうけれど、私には・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・これは豪雨のときに氾濫する虞れの多い溪の水からこの温泉を守る防壁で、片側はその壁、片側は崖の壁で、その上に人々が衣服を脱いだり一服したりする三十畳敷くらいの木造建築がとりつけてあった。そしてこれが村の人達の共同の所有になっているセコノタキ温・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・この時十蔵室の入り口に立ちて、君らは早く逃げたまわずやというその声、その挙動、その顔色、自己は少しも恐れぬようなり。この時振動の力さらに加わりてこの室の壁眼前に崩れ落つる勢いすさまじく岡村と余とは宮本宮本と呼び立てつつ戸外に駆けいでたり。十・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ましてそれは早期の童貞喪失を伴いやすく、女性を弄ぶ習癖となり、人生一般を順直に見ることのできない、不幸な偏執となる恐れがあるのである。 学生時代に女性侮蔑のリアリズムを衒うが如きは、鋭敏に似て実は上すべりであり、決して大成する所以ではな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・革命を恐れて、本国から逃げて来た者もあった。前々から、西伯利亜に土着している者もあった。 彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は掠奪された。彼等は安心して仕事をすることが出来なかった。彼等は生活に窮するより外、道がなか・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 自分は今天覧の場合の失敗を恐れて骨を削り腸を絞る思をしているのである。それに何と昔からさような場合に一度のあやまちも無かったとは。「ムーッ。」と若崎は深い深い考に落ちた。心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡ったが、何を・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・のに、之を悼惜し慟哭する妻子・眷族其他の生存者の悲哀が幾万年か繰返されたる結果として、何人も漠然死は悲しむべし恐るべしとして怪しまぬに至ったのである、古人は生別は死別より惨なりと言った、死者には死別の恐れも悲みもない、惨なるは寧ろ生別に在る・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・そのために、そこに打ち込まれることを恐れて、若しも運動が躊躇されると考えるものがいるとしたら、俺は神にかけて誓おう――「全く、のん気なところですよ。」と。 第一、俺は見覚えの盆踊りの身振りをしながら、時々独房の中で歌い出したものだ―・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・彼女が心ひそかに映ることを恐れたような父親の面影のかわりに、信じ難いほど変り果てた彼女自身がその鏡の中に居た。「えらい年寄になったものだぞ」 とおげんは自分ながら感心したように言って、若かった日に鏡に向ったと同じ手付で自分の眉のあた・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫