・・・就中、椿岳の恬淡洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板が目触りだというので、椿岳は工風をして廂を少し突出して、羽目板へ直接にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・きょうは朝から近頃に無く気持がせいせいしていて慾も得も無く、誰をも怨まず、誰をも愛さず、それこそ心頭滅却に似た恬淡の心境だったのですが、あなたに話かけているうちに、また心の端が麻のように乱れはじめて、あなたの澄んだ眼と、強い音声が、ともする・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥に尋常でない望みがあり」「必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで美しい目の視線は遠い遠い所に注がれていて、或は自分の・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、その望みの前には一切の物が塵芥のごとく卑しくなっていたのであろう。 お佐代さんは何を望んだか。世間・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫