・・・七年の月日の間に数えるほどしか離れられてなかった今の住居から離れ、あの恵那山の見えるような静かな田舎に身を置いて、深いため息でも吐いて来たいと思う事もその一つであった。私のそばには、三十年ぶりで郷里を見に行くという年老いた嫂もいた。姪が連れ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・あの画には、なんとなく迫って来るものがあるよ。」 私たちが次郎を郷里のほうへ送り出したのは、過ぐる年の秋にあたる。あの恵那山の見える山地のほうから、次郎はかなり土くさい画を提げて出て来た。この次郎は、上京したついでに、今しばらく私たちと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は、急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。「チェッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
出典:青空文庫