・・・自分と省作との関係を一口に淫奔といわれるは実に口惜しい。さりとて両親の前に恋を語るような蓮葉はおとよには死ぬともできない。「おとッつさんのおっしゃるのは一々ごもっともで、重々わたしが悪うございますが、おとッつさんどうぞお情けに親不孝な子・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・二人の親も世間に見せるかおがないと云って家の中に許り入って居たけれ共とうとう悔死、さぞ口惜しい事だったろうと人々は云って居た。其の後は家に一人のこって居たけれ共夫となるべき人もないので五十余歳まで身代のあらいざらいつかってしまったのでしょう・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・夫が妻に対して随分強い不満を抱くことも有り、妻が夫に対して口惜しい厭な思をすることもある。その最も甚しい時に、自分は悪い癖で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分か知らぬが、ツイ荒い物言いもするが、夫はいよいよ怒るとなると、勘高い声で人・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・あおまえも、品質が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣すような酷い叔母様に使われて、そうして釣竿で打たれるなんて目に逢うのだから、辛いことも辛いだろうし口惜しいことも口惜しいだろうが、先日のよ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・――大川のおかみさんは、私はだまされたという程にも思わないが、警察に入れば直ぐその日から食えなくなるような夫を、何んだって引き入れてくれたかと、そればかり口惜しいと云うのだった。中にいる夫に蜜柑どころか、この寒さに足袋さえ入れてやることが出・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。 太宰治 「走れメロス」
・・・「ああ、発ッてますよ。口惜しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻る。「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦る。 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 去年の中頃に、お節が長病いをした時、貸りてまだ返さずにある十円ばかりの金の事を云い出されては、口惜しいけれど、それでもとは云われなかった。 自分が、それを返す余地がないと知って、余計に見込んで苦しめる様な事をするお金も堪らなく憎ら・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 酔っぱらいは保護室へぶちこまれてからも、「僕ァ……ずつに、ずつに口惜しいです。僕ァこんなところで……僕ァダダ大学生です!」 声を出して咽び泣いている。「五月蠅え野郎だナ。寝ねえか!」 眼の大きい与太者がドス声でどやしつ・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫