・・・私は悚然として再びこの沼地の画を凝視した。そうして再びこの小さなカンヴァスの中に、恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿を見出した。「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然とした。 靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。 ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 思わずも悚然せしが、これ、しかしながら、この頃のにはあらじかし。 今は竹の皮づつみにして汽車の窓に売子出でて旅客に鬻ぐ、不思議の商標つけたるが彼の何某屋なり。上品らしく気取りて白餡小さくしたるものは何の風情もなし、すきとしたる黒餡・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・杯に、座蒲団に坐って、蔽のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑に煙草を吸ったあとで、円い肘を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然として震上った。 大川の瀬がさっ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然とする。奴の顔色、赤蜻蛉、黍の穂も夕づく日。「そ、そんなくれえで、お浜ッ児の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。 炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべい・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 悚然とする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。」「大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、生れ生れ茄子のまじないだよ。」「でも、畑のまた下道には、古い穀倉があるし、狐か、狸か。」「そんな事・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ ああ、山伏を見て、口で、ニヤリと笑う。 悚然とした。「鷺流?」 這う子は早い。谿河の水に枕なぞ流るるように、ちょろちょろと出て、山伏の裙に絡わると、あたかも毒茸が傘の轆轤を弾いて、驚破す、取て噛もう、とあるべき処を、――・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ や、もうその咳で、小父さんのお医師さんの、膚触りの柔かい、冷りとした手で、脈所をぎゅうと握られたほど、悚然とするのに、たちまち鼻が尖り、眉が逆立ち、額の皺が、ぴりぴりと蠢いて眼が血走る。…… 聞くどころか、これに怯えて、ワッと遁げ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・といって、目を剥いて、脳天から振下ったような、紅い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然として、雲の蒸す月の下を家へ遁帰った事がある。 人間ではあるまい。鳥か、獣か、それともやっぱり土蜘蛛の類かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に閑らるる思いして、悚然と寒気を感じたのである。「くすくす、くすくす。」 花骨牌の車座の、輪に身を捲かるる、危さを感じながら、宗吉が我知らず面を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
出典:青空文庫