・・・という端物の書き出しには、パリーのある雑誌に寄稿の安受け合いをしたため、ドイツのさる避暑地へ下りて、そこの宿屋の机かなにかの上で、しきりに構想に悩みながら、なにか種はないかというふうに、机のひきだしをいちいちあけてみると、最終の底から思いが・・・ 夏目漱石 「手紙」
ニイチェの世界の中には、近代インテリのあらゆる苦悩が包括されてゐる。だれでも、自分の悩みをニイチェの中に見出さない者はなく、ニイチェの中に、自己の一部を見出さないものはない。ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつッついたのだ。「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ。剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それで傷が癒りゃ、医者なんぞ食い上げだ! いい・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・穂吉どの、さぞ痛かろう苦しかろう、お経の文とて仲々耳には入るまいなれど、そのいたみ悩みの心の中に、いよいよ深く疾翔大力さまのお慈悲を刻みつけるじゃぞ、いいかや、まことにそれこそ菩提のたねじゃ。」 梟の坊さんの声が又少し変りました。一座は・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 今日の心情は、その今日の性格において愛と死の問題をわが生の意義の上に悩み、感じ、知りたいと思っているのだと思う。この小説が後半まで書き進められたとき、作者の心魂に今日のその顔が迫ることはなかったのだろうか。愛と死の現実には、歴史が響き・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
・・・この二つの悩みのどっちをとってみても、きょうの若い女性がどんなにゆたかな進歩した人生を欲しているかという事実と、反対に、日本の社会の現実はまだなかなか若々しくどこまでも伸びようとする女性のねがいの枝を撓める状態におかれているという現実を語っ・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・ここへ来るまでに、暑を侵して旅行をした宇平は留飲疝通に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩った。そこで五日・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・そして、軈て来る冬の仕事の手始めとして、先ず柴山の選定に村人達が悩み始める頃迄続いていった。三 まだ夕暮には時があった。秋三は山から下ろして来た椚の柴を、出逢う人々に自慢した。 そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた・・・ 横光利一 「南北」
・・・当時の悩みの種が意外なところへ落ちていて、いつの間にかそこで葉を伸ばしていたのである。彼は一日も早く栖方に会ってみたくなった。おそるべき青年たちの一塊をさし覗いて、彼らの悩み、――それもみな数学者のさなぎが羽根を伸ばすに必要な、何か食い散ら・・・ 横光利一 「微笑」
・・・後者は自己を鼓舞し激励するとともに、多くの悩み疲れた同胞を鼓舞し激励します。 あなたに愚痴をこぼしたあとでこんな事をいうのは少しおかしいかも知れません。しかし私はあなたに愚痴をこぼしている内に自然こういう事を言いたい気持ちになって来たの・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫