・・・仁右衛門は惘然したまま、不思議相な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外はなかった。 獣医の心得もある蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ある時はいとしい恋人の側で神鳴の夜の物語して居る処を夢見て居る。ある時は天を焦す焔の中に無数の悪魔が群りて我家を焼いて居る処を夢見て居る。ある時は万感一時に胸に塞がって涙は淵を為して居る。ある時は惘然として悲しいともなく苦しいともなく、我に・・・ 正岡子規 「恋」
・・・主観的の句の複雑なるうき我に砧打て今は又やみねのごときに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失言うところを知らざるべし。精細的美 外に広きものこれを複雑と謂い、内に詳らかなるもの・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫