・・・私はすっかり弱ってしまって、丁度悪戯をしてつかまった子供のような意気地のない心持になって、主人の云うがままになって引き下がる外はなかったのである。 帰る途中で何だか少し落着かない妙な気がした。軽い負債でも背負わされたような気がしてあまり・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・青木も意気地がないじゃないか。あれほど望む結婚なら、もっと何とかできそうなものだ。あれではまるでこっちの親類を背景にして、ふみ江さんをもらったようなもんだからな」「え、あの人両親の前では、何にも言えないんです」「しかし、もうそうなっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・あるときはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあるが、成上りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立って世に処する事の出来・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・ああなると意気地のねえもんだて、息がつけねえんだからな。フー、だが、全く暑いよ」 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬を、西宮はちょいと突・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なるところなれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、その方寸の中には竊に必敗を期しながらも、武士道の為めに・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・○僕も昔は少し気取て居った方で、今のように意気地なしではなかった。一口にいうとやや悟って居る方だと自惚れて居た。ところが病気がだんだん劇しくなる。ただ身体が衰弱するというだけではないので、だんだんに痛みがつのって来る。背中から左の横腹や・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・いまぼくが読み返してみてさえ実に意気地なく野蛮なような気のするところがたくさんあるのだ。ちょうど小学校の読本の村のことを書いたところのようにじつにうそらしくてわざとらしくていやなところがあるのだ。けれどもぼくのはほんとうだから仕方ない。ぼく・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・下宿している女学生の夕飯は皆この通りではないか、意気地なし! 三畳から婆さんが、「いかがです御汁、よろしかったらおかえいたしましょう」と声をかけてよこした。陽子は膳の飯を辛うじて流し込んだ。 三 庭へ廻・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「それでは僕のかく画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。」「まあ、そうだ。」「意気地がないねえ。現れたら、どうなるのだ。」「危険思想だと云われる。それも世間がかれこれ云うだ・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫