・・・ 優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。――と云う非難が多かったらしい。現に商業会議所会頭某男爵のごときは大体上のような意見と共に、蟹の猿を殺したのも多少は流行の危険思想にかぶれたのであろうと論断した。・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・この説に就いては、なお長年月をかけて考えてみたいと思っているが、小説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに帰郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・われながら呆れて、再び日頃の汚濁の心境に落ち込まぬよう、自戒の厳粛の意図を以て左に私の十九箇条を列記しよう。愚者の懺悔だ。神も、賢者も、おゆるし下さい。 一、世々の道は知らぬ。教えられても、へんにてれて、実行せぬ。 二、万ずに依怙の・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ しかれども大いに驚き大いに疑う無知者愚者となるためにはまたひろく知り深く学ばねばならぬのである。上述のガリレー、ニュートンの発見に関する逸話はその実信ずるに足らぬ俗説であるが、しかしこれらの発見をするためにはまた非凡な準備素養を要した・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身一回、此智、此徳・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・諺に言葉多きは科少なしと言い、西洋にも空樽を叩けば声高しとの語あり。愚者の多言固より厭う可し。況して婦人は静にして奥ゆかしきこそ頼母しけれ。所謂おてんばは我輩の最も賤しむ所なれども、唯一概に寡黙を守れとのみ教うるときは、自から亦弊害なきに非・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・彼女は依然として余の愛らしき妹なり。愚者よ何の涙ぞ。」「頭痛堪へ難し。今日又余は彼女に遭ひぬ。然り彼女と共に上野を歩しぬ。余は彼女に遭はざらん事を希ふ。余の頭は今克く其戦に堪へず。」云々。 同じ頃、まだ生活の方向をも定めていなか・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 私がまだねんねえで世間知らずの愚者でござった頃にはこの様な晩に出会う毎に寝間着のままで床にひざまずいて、僧正様のお祈りよりもそっと長い文句をくり返しくり返し血迷うた様に繰返してわけもない涙を身の浮くほど流いてのう貴方様、長い一夜をまん・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
出典:青空文庫