・・・葬式という奴もこうなるとかえって愛嬌があっていいさ。また死ぬということも、考えてみるとちょっと滑稽な感じのものじゃないか。先の母の死んだ時は、まだ子供の時分だったせいか、ずいぶん怖かったがね、今度のおやじの場合は、ひどくいじらしく不憫な気は・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のように肉附が佳くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鉄腸漢も軟化・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・それがひどく愛嬌を持っている。「這入ってもいい?」「それ何?」「パンだ。あげるよ。」 女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。「おい、もっと開けといてくれんか。」「……室が冷えるからだめ。――一・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・仙人は建築が上手で、弘法大師なども初は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎と一緒に滴るばかりで実に好人物だ。 ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標と磨いたる額の瓶のごとく輝るを気にしながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき小春が歳十六ばかり色ぽッてりと白き丸顔の愛敬溢るるを何の気もなく瞻めいたるにまた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「奥様はあんまり愛嬌が有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂の隅のところに珈琲を研く道具を持出して、自分で煎ったやつをガリガ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・に立ち去ったりなんかして、お勘定も何もあったものでなく、やがて終戦になりましたので、こんどは私どもも大っぴらで闇の酒さかなを仕入れて、店先には新しいのれんを出し、いかに貧乏の店でも張り切って、お客への愛嬌に女の子をひとり雇ったり致しましたが・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・けれどその顔にはにこにこしたさっきの愛嬌はなく、まじめな蒼い暗い色が上っていた。黙って室の中に入ってきたが、そこに唸って転がっている病兵を蝋燭で照らした。病兵の顔は蒼ざめて、死人のように見えた。嘔吐した汚物がそこに散らばっていた。 「ど・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・彼の講義には他の抽象学者に稀に見られる二つの要素、情調と愛嬌が籠っている、とこの著者は云っている。講義のあとで質問者が押しかけてきても、厭な顔をしないで楽しそうに教えているそうである。彼の聴講者は千二百人というレコード破りの多数に達した。彼・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫