・・・の中の人々の心持や生活が、類いもなく懐しく慕わしいものに思われた。自分にもあんな気持にもなれるし、あんな生活も送れないことはないという気がされたのだ。偶然な小僧の事件は、彼のそうした気持に油を濺いだ。「そうだ! 田舎へ帰ると、ああした事・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。まだ人生と恋愛とが未来であった十七歳の青年の心持に、ただの二三十分間でもいいから戻ってみたい。あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼に伴う熱烈な欲望が今一度味われ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ その度量の広いと云う事が、我々の様に、細かい事にまで哀れな神経をなやまして居る者は非常に慕わしいのである。 それはそうと、私は、今早く学校の始まるのを望んで居る。自分の意に満たぬ事はよし多くとも、一日が確に送れると云う事は、その他・・・ 宮本百合子 「曇天」
・・・ 僕はシモンズ氏によって今少しくこの慕わしい女優の芸術を讃美しようと思う。 デュウゼは世界のあらゆる女優よりも複雑な底のある性格をもっている。そして世界のあらゆる女優よりも単純な演じ方をする。ゆえに彼女の芸は深い底から湧いて出るよう・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫