・・・哀訴や、敏感や、細胞の憂愁は全く都会人、文明人の特質で古代の知らない病であると云うかもしれない。然し、等しく、此等は人類の心の過程ではありませんか我々は、彼の素朴と敏感とを並び祖先に持つ我々は其等を皆、我裡に感じる。・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・し迫ったことではないという、潜在的な余裕、安心と、彼女の空想によって神秘化され、何かしら魅惑的な色彩をほどこされている死そのものの概念とが、どんな幸福な若者の心をも、一度は必ず訪れるに違いない感傷的な憂愁の力をかりて、驚くべき劇を描き出すの・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ツルゲーネフがヴィアルドオ夫人やその夫と共にパリの客間で「スラヴ人の憂愁」について語っていた時分、十歳年下のトルストイはセバストウポリの要塞で戦争の恐ろしい光景を死屍の悪臭とともに目撃していた。パリでトルストイに一生忘られない戦慄を与えたの・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・ハンスが、おそろしい入学試験を終った日、小さい庭へ出て、過度な勉強から来る頭痛や悲しさを知らなかった幼い日の思い出の兎小舎をうちこわし、水車をこわす心持は、読者の胸をもハンスの憂愁と愛着とで疼かせずにはいない。釣をする柳の生えた河の景色の溌・・・ 宮本百合子 「若き精神の成長を描く文学」
・・・その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方を向いたまま動かなかった。・・・ 横光利一 「微笑」
・・・緩やかな、力の這入った詞で、真面目な、憂愁を帯びた目を、怯れ気もなく、大きくって、己を見ながら、こう云った。「その刑期を済ましたのかね。」「ええ。わたくしの約束した女房を附け廻していた船乗でした。」「そのお上さんになるはずの女は・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいら・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫