・・・の微意を御了解くださるように念じあげます云々―― 終日床の中にいて、ようよう匐いでるようにして晩酌をはじめたのだったが、少し酔いの廻りかけた時分だったので、自分はその手紙を読んで何とも言えない憂鬱と、悩ましい感じに打たれた。自分の作・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出すからであった。生島はその四十を過ぎた寡婦である「小母さん」となんの愛情もない身体の関係を続けていた。子もなく夫にも死に別れたその女にはどこ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・暗のなかの夾竹桃はそのまま彼の憂鬱であった。物陰の電燈に写し出されている土塀、暗と一つになっているその陰影。観念もまたそこで立体的な形をとっていた。 喬は彼の心の風景をそこに指呼することができる、と思った。 二 ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・升屋の老人の推測は、お政の天性憂鬱である上に病身でとかく健康勝れず、それが為に気がふれたに違いないということである。自分の秘密を知らぬものの推測としてはこれが最も当っているので、お政の天性と瘻弱なことは確に幾分の源因を為している。もしこれが・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・もとより私といえども今日学生の社会的環境の何たるかを知らぬものではなく、その将来の見通しより来る憂鬱を解せぬものでもない。しかもそれにもかかわらず私は勧める。夢多く持て、若き日の感激を失うな。ものごとを物的に考えすぎるな。それは今の諸君の環・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・と、おきのは彼の憂鬱に硬ばっている顔色を見て訊ねた。彼は黙って何とも答えなかった。 飯がすんで、二人づれで畠へ行ってから、おきのは、「家のような貧乏たれに、市の学校やかいへやるせに、村中大評判じゃ。始めっからやらなんだらよかったのに・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ 観音経をやりながら、ちょい/\頓狂に笑う伍長をのけると、みんな憂鬱にベッドから頭を上げなかった。「まだ、俺等は運がよかったか!」 栗本は考えた。ベッドには、一人の患者がいなくなると、また別の傷病者がそのあとへやって来る。それが・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護ろうとする心に帰って行った。 安い思いもなしに、移り行く世相・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・何処かの田圃の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草木の感じまでが憂鬱で悩ましかった。「何だか俺はほんとに狂にでも成りそうだ」 とおげんは半分串談のように独りでそんな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことがある。読・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫