・・・島に下車させて、私は無理にはしゃいで三島の町をあちこち案内して歩き、昔の三島の思い出を面白おかしく、努めて語って聞かせたのですが、私自身だんだん、しょげて、しまいには、ものも言いたくなくなる程けわしい憂鬱に落ち込んでしまいました。今見る三島・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・たとえばだいじのむすこを毒殺された親父の憂鬱を表現する室内のシーンでもその画面の明暗の構図の美しさはさまにレンブラントを想起させるものがあるが、この場面のいろいろなヴァリエーションが少なくも多くの日本人には少し長すぎるであろうと思われる。し・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・退屈というのが悪ければ深刻な憂鬱である。それを観客に体験させる。 始めから終わりまで繰り返さるる怒濤の実写も実に印象の強く深い見ものである。波の音もなかなかよく撮れていて、いつまでも耳に残るような気がした。場外へ出たときに聞いた電車の音・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・もちろん憂鬱ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐げられているらしく見えた。姙娠という生理的の原因もあったかもしれなかった。 桂三郎は静かな落ち着いた青年であった。その気質にはかなり意地の強いところもあるらしく見・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥っていた。彼らの姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼ら・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・陽子は益々自分の中途半端な立場を感じ、謂わば、枝に引かかった凧のように憂鬱なのであった。 ――静けさ明るさに溶けるように、「う? う?」 軟かく鼻にかかった百代の声がした。十六の彼女は従兄の忠一の後に大きな元禄紬の片腕を廻し背中・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・と云う優しい憂鬱、同時に、美しい見識を以て、白鳥のように、生活していらっしゃりたく、又被居るのではないのでしょうか。私は極々人間的なのです、総ての見方が。それ故、自分並全人類の持つ痴愚や不完全さが、随分のところまで認容します。真個に大切な光・・・ 宮本百合子 「大橋房子様へ」
・・・彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれていった。 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかった。五 その翌日、ナポレオンは何者の反対をも切り抜け・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱に蝋燭の火を吹き消した。 四 彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱とがある。 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫