・・・ そのような、頗る泥臭い面罵の言葉が、とめどなく、いくらでも、つぎつぎと胸に浮び、われながらあまり上品では無いと思いながら、憤怒の念がつのるばかりで、いよいよひとりで興奮し、おしまいには、とうとう涙が出て来た。 所詮は、陰弁慶である・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・そして赤ん坊を抱いて下駄ばきで庭へ出る。憤怒、悲哀、痛苦を一まとめにしたような顔を曇らせて、不安らしく庭をあちこち歩き廻るのである。異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかた・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。 英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex はLの uehere に関係し「運搬」の意がありサン・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・これにはもちろん子を哀れみまた自分を哀れむ複雑な心理が伴なってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によって憤怒の緊張は緩和され、そうして自己を客観することのできるだけに余裕のある状態に移って行くのである。そうしてかわいいわが子を折檻し・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・その堪えがたき裏淋しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、ぐっとさばけて、諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可笑味面白味を発見して、これを頓智的・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・よしまた、知ったにしても、こういう江戸ッ児はわれら近代の人の如く熱烈な嫌悪憤怒を感じまい。我れながら解せられぬ煩悶に苦しむような執着を持っていまい。江戸の人は早く諦めをつけてしまう。すぐと自分で自分を冷笑する特徴をそなえているから。 高・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。 欄間や柱の彫刻、天井や壁の絵画を一ツ一ツに眺めよう。 自分はここにわれら・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・彼は更に次の日の夕方生来嘗てない憤怒と悲痛と悔恨の情を湧かした。それは赤が死んだ日に例の犬殺しが隣の村で赤犬を殺して其飼主と村民の為に夥しくさいなまれて、再び此地に足踏みせぬという誓約のもとに放たれたということを聞いたからである。彼は其夜も・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・おそろしい悲しみと、歯噛みしたいような憤怒とが、一度に彼の腹の底からこみ上げて来た。 が、吉田はすべての感情を押し堪えて、子供を背中に兵児帯で固く縛りつけて、高等係中村と家を出た。 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・私は首から上が火の塊になったように感じた。憤怒! 私は傷いた足で、看守長の睾丸を全身の力を罩めて蹴上げた。が、食事窓がそれを妨げた。足は膝から先が飛び上がっただけで、看守のズボンに微に触れただけだった。 ――何をする。 ――扉を・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫