・・・それは懇ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま父の言いつけを聞かねばならなかった。 監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄・・・ 有島武郎 「親子」
・・・浅草の伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と懇ろにした。この教信は好事の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して数寄の遊びを侶にした。その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をし・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そうして、懇ろにおじいさんを葬って、みんなで法事を営みました。「ほんとうに、だれからでも慕われた、徳のあるおじいさんだった。」と、人々はうわさをいたしました。 また、二十年たち、三十年たちました。おじいさんの墓のそばに植えた桜の木は・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・きっと、これは母の怒りであろうと思いましたから、子供は、懇ろに母親の霊魂を弔って、坊さんを呼び、村の人々を呼び、真心をこめて母親の法事を営んだのでありました。 明くる年の春、またりんごの花は真っ白に雪のごとく咲きました。そして、夏には、・・・ 小川未明 「牛女」
・・・そして、そのつばめの死骸を拾い上げて、ふところの中に隠して、後になってから、それを学校の裏の竹やぶの中に懇ろに葬ってやりました。 それからというものは、急に、その子供は産まれ変わったように者覚えがよくなりました。みんなは驚くばかりでした・・・ 小川未明 「教師と子供」
・・・ 十月八日病革まるや、日昭、日朗以下六老僧をきめて懇ろに滅後の弘経を遺嘱し、同じく十八日朝日蓮自ら法華経を読誦し、長老日昭臨滅度時の鐘を撞けば、帰依の大衆これに和して、寿量品の所に至って、寂然として、この偉大なたましいは、彼が一生待ち望・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・適当の収入さえあれば、夫への心をこめた奉仕と、子どもの懇ろなる養育と、家庭内の労働と団欒とを欲する婦人が生計の不足のためにやむなく子供を託児所にあずけて、夫とともに家庭を留守にして働くのである。婦人には月々の生理週間と妊娠と分娩後の静養と哺・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ こういうことは、貴誌の方々には珍しくも何でもないことと思いますが、ただ平生から思っていることでありますから、これだけのことを申上げて、御懇ろな御手紙に対する御返事に代えることと致したいと思います。どうか悪しからず御諒察を願います。・・・ 寺田寅彦 「書簡(2[#「2」はローマ数字2、1-13-22])」
・・・後日再び奥州から大軍の将として上洛する途上この宿に立寄り懇ろに母の霊を祭る、という物語を絵巻物十二巻に仕立てたものである。 絵巻物というものは現代の映画の先祖と見ることが出来る。これについては前にも書いたことがあったが、この山中常盤双紙・・・ 寺田寅彦 「山中常盤双紙」
・・・男、女の前に伏して懇ろに我が恋叶えたまえと願う」クララは顔を背けて紅の薔薇の花を唇につけて吹く。一弁は飛んで波なき池の汀に浮ぶ。一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲える石の欄干に中りて敷石の上に落ちた。「次に来るは応諾の時期である。誠ありと見抜く・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫