・・・だがその手柄が何であったか、戦場がどこであったか、いくら考えても思い出せず、記憶がついそこまで来ながら、朦朧として消えてしまう。「あア!」 と彼は力なく欠伸をした。そして悲しく、投げ出すように呟いた。「そんな昔のことなんか、どう・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 数十万の人間が、怨みも、咎もないのに、戦場で殺し合っていたように、―― 眼に立たないように、工場や、農村や、船や、等々で、なし崩しに消されて行く、一つの生贄で、彼もあった。―― 一人前の水夫になりかけていた、水夫見習は、も・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・海陸軍の医士、法学士、または会計官が、戦士を指揮して操練せしめ、または戦場の時機進退を令するの難きは、人皆これを知りながら、政治の事務家が教育の法方を議し、その書籍を撰定し、または教場の時間、生徒の進退を指令するの難きを知らざる者あらんや。・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・というのは、当時文学者として自分ぐらいの者になっているものはいいが、まだ人の世話になって小説の修業をしているような文学青年は、ペンをすてて戦場へ赴くべきだといった室生犀星をはじめとして、能動精神をとなえた作家のすべてをひっくるめて、文学は戦・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・戦の罪悪は、戦がその戦場でやった非人道的なことのほかに、こうして殺すという恐ろしいことについて無感覚になった人間を非常にたくさん日本の中にもたらした点にあります。これは非常に恐ろしいことだと思う。基本的人権の問題をいう場合も……。 新聞・・・ 宮本百合子 「浦和充子の事件に関して」
・・・ 今や諧謔の徒は周囲の人を喜ばすためにかれをして『糸くず』の物語をやってもらうようになった、ちょうど戦場に出た兵士に戦争談を所望すると同じ格で。あわれかれの心は根底より壊れ、次第に弱くなって来た。 十二月の末、かれはついに床についた・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・その内寛永十四年嶋原征伐と相成り候故松向寺殿に御暇相願い、妙解院殿の御旗下に加わり、戦場にて一命相果たし申すべき所存のところ、御当主の御武運強く、逆徒の魁首天草四郎時貞を御討取遊ばされ、物数ならぬ某まで恩賞に預り、宿望相遂げず、余命を生延び・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。 私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴え・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・Whole Body thinks. そして思索のために物悲しい影の浮かんでいるその顔は、人の世のあらゆる情熱が彼女の血と肉とによって幾度となく通り過ぎた戦場なのである。 ああ、エレオノラ・デュウゼ。・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫