・・・ 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄わした。「何て、縁儀の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイの・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 彼等は、腹癒せに戸棚に下駄を投げつけたり、障子の桟を武骨な手でへし折ったりした。この秋から、初めて、十六で働きにやって来た、京吉という若者は、部屋の隅で、目をこすって、鼻をすゝり上げていた。彼の母親は寡婦で、唯一人、村で息子を待ってい・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・を卒える頃からででもあったろうか、何でも大層眼を患って、光を見るとまぶしくてならぬため毎日々々戸棚の中へ入って突伏して泣いて居たことを覚えて居る。いろいろ療治をした後、根岸に二十八宿の灸とか何とかいって灸をする人があって、それが非常に眼に利・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・この段取の間、男は背後の戸棚にりながらぽかりぽかり煙草をふかしながら、腮のあたりの飛毛を人さし指の先へちょと灰をつけては、いたずら半分に抜いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐ったり何か変なことをいたし、まるで狂人じみて居ります。ちょうど歳暮のことで、内儀「旦那え/\」七「えゝ」内儀「・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・何かごとごと言わせて戸棚を片づける音、画架や額縁を荷造りする音、二階の部屋を歩き回る音なぞが、毎日のように私の頭の上でした。私も階下の四畳半にいてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかった。仕事の上手なお・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・おげんはその宗太の娘から貰った土産の蔵ってある所をも熊吉に示そうとして、部屋の戸棚についた襖までも開けて見せた。それほどおげんには見舞に来てくれる親戚がうれしかった。おげんは又、弟からの土産を大切にして、あちこちと部屋の中を持ち廻った。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ お戸棚に、おむすびがございますけど」 と申しますと、「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。 これも珍らしい事でございました。坊やは、来年は四つになるので・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・それ、この瓶は戸棚に隠せ、まだ二目盛残ってあるんだ、あすとあさってのぶんだ、この銚子にもまだ三猪口ぶんくらい残っているが、これは寝酒にするんだから、銚子はこのまま、このまま、さわってはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・同じように、トナカイの群れを養う土人の家族が映写されても、それがカラフトのおおよそどのへんに住むなんという種族の土人だかまるきりわからないから、せっかくの印象を頭の中のどの戸棚にしまってよいか全く戸まどいをさせられる。 材木の切り出し作・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫