・・・しかし、二人ともにそうだが、ことにK市の姉はよく孫のだれかに手紙の上封などをかかせる事があるからと思って、戸棚の中から古手紙の束を出して来て、いくつかの姉の手紙を拾い出して比べて見た。 K市の姉からのあて名の手跡の或るものは小包のと似て・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・幅一間ばかりの長い廊下で、黒い板がつるつる光っていた。戸棚や何かがそこにあった。 廊下つづきの入口の方を見ると、おひろがせっせと雑巾がけをしていた。道太は茶の室へ出ていって、長火鉢の前に坐って、煙草をふかしはじめた。「みんな働くんだ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・帰りに台所へ廻って、戸棚を明けて、昨夕三重吉の買って来てくれた粟の袋を出して、餌壺の中へ餌を入れて、もう一つには水を一杯入れて、また書斎の縁側へ出た。 三重吉は用意周到な男で、昨夕叮嚀に餌をやる時の心得を説明して行った。その説によると、・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・そのほかに礼服用の光る靴が戸棚にしまってある、靴ばかりは中々大臣だなと少々得意な感じがする。もしこの家を引越すとするとこの四足の靴をどうして持って行こうかと思い出した。一足は穿く、二足は革鞄につまるだろう、しかし余る一足は手にさげる訳には行・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 兎のおっかさんまでが泣いて、前かけで涙をそっとぬぐいながら、あの美しい玉のはいった瑪瑙の函を戸棚から取り出しました。 兎のおとうさんは函を受けとって蓋をひらいて驚きました。 珠は一昨日の晩よりも、もっともっと赤く、もっともっと・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・それから戸棚からくさりかたびらを出して、頭から顔から足のさきまでちゃんと着込んでしまいました。 それからテーブルと椅子をもって来て、きちんとすわり込みました。あまがえるはみんな、キーイキーイといびきをかいています。とのさまがえるはそこで・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・その、自分の家でありながら六畳の方へは踏み込まず、口数多い神さんが気に入らなかったが、座敷は最初からその目的で拵えられているだけ、借りるに都合よかった。戸棚もたっぷりあったし、東は相当広い縁側で、裏へ廻れるように成ってもいる。 陽子は最・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 何か戸棚を見つけものをしたり、古い箱を開けたりする毎に小さい情ないおかたみの見つかる事を希って居る。 口が自由に動かないで「ほおずき」が鳴らせないで居た彼の妹は赤いゴムの「ほおずき」を只しゃぶって居た。今私は豆や「なす」やのほ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・と書いた札の張ってある、煤色によごれた戸棚から、しめっぽい書類を出して来て、机の上へ二山に積んだ。低い方の山は、其日々々に処理して行くもので、その一番上に舌を出したように、赤札の張ってある一綴の書類がある。これが今朝課長に出さなくてはならな・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・そして、戻るとき戸棚の抽出しから白紙を出して、一円包んで出て来ると安次に黙って握らせた。「あかんのや、あかんのや、もうそんなことして貰うたて。」と安次は云って押し返した。 しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫