・・・が、彼を推挙した内藤三左衛門の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・「いえ手前でございますならまだいただきたくはございませんから……全くこのお話は十分に御了解を願うことにしないとなんでございますから……しかし御用意ができましたのなら……」「いやできておっても少しもかまわんのです」 父は矢部の取り・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「ふうむ薪でも割ってくれれば好いけれど、手前にはそれも出来まい」と憎げに百姓はいった。馬鹿は卑しい、卑褻な詞で返事をした。 レリヤは、「此処は厭な処だから、もう帰りましょうね」と犬に向かっていって、後ろも見ずに引き返した。 レリヤは・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ また山と言えば思出す、この町の賑かな店々の赫と明るい果を、縦筋に暗く劃った一条の路を隔てて、数百の燈火の織目から抜出したような薄茫乎として灰色の隈が暗夜に漾う、まばらな人立を前に控えて、大手前の土塀の隅に、足代板の高座に乗った、さいも・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 姉なんぞへの手前があるから、母はなお声はげしく言うのだ。「そんなにお母さんはげしく起こさねたってすぐ起きますよ」「すぐ起きますもねいもんだ。今時分までねてるもんがどこにある。困ったもんだな。そんなことでどこさ婿にいったって勤ま・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるので誰云うともなく美人問屋と云ってその娘を見ようと前に立つ人はたえた事がない、丁度年頃なのであっちこっちからのぞみに母親もこの返事に迷惑して申しのべし、「手前よろしければかねて手道具は高蒔絵の美・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 何の用足しだか知れたものじゃねえ、こう三公、いいことを手前に訓えてやらあ、今度お上さんが出かけるだったらな、どうもお楽しみでございますねって、そう言って見や、鼻薬の十銭や二十銭黙ってくれるから」「おいらはそんなことを言わなくたって、お・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ところが或日若夫婦二人揃で、さる料理店へ飯を食いに行くと、またそこの婢女が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町・・・ 小山内薫 「因果」
・・・文学趣味のある彼女は豹一の真赤に染められた頬を見て、この少年は私の反撥心を憎悪に進む一歩手前で喰い止めるために、しばしば可愛い花火を打ち上げると思った。なお、この少年は私を愛していると己惚れた。それをこの少年から告白させるのはおもしろいと思・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫