・・・ 慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗に、気味悪くじっとり沾っていた。 母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たよ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ふりかえると、そこには、了哲が、うすいものある顔をにやつかせながら、彼の掌の上にある金無垢の煙管をもの欲しそうに、指さしていた。「こう、見や。」 河内山は、小声でこう云って、煙管の雁首を、了哲の鼻の先へ、持って行った。「とうとう・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・クララは、見つめるほど、骨肉のいとしさがこみ上げて来て、そっと掌で髪から頬を撫でさすった。その手に感ずる暖いなめらかな触感はクララの愛欲を火のようにした。クララは抱きしめて思い存分いとしがってやりたくなって半身を起して乗しかかった。同時にそ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・百姓は掌で自分の膝を叩いて、また呼んだ。「来いといったら来い。シュッチュカ奴。馬鹿な奴だ。己れはどうもしやしない。」 そこで犬は小股に歩いて、百姓の側へ行掛かった。しかしその間に百姓の考が少し変って来た。それは今まで自分の良い人だと思っ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはたりと解けて、三ツ美く包んだのは、菓子である。 と見ると、白と紅なり。「はてな。」 立花は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かなら・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・地獄も見て来たよ――極楽は、お手のものだ、とト筮ごときは掌である。且つ寺子屋仕込みで、本が読める。五経、文選すらすらで、書がまた好い。一度冥途をってからは、仏教に親んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩で・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 美しい、赤い実を掌の上にのせて、ながめていた義雄さんは、なんの実だろうかと思いました。「お母さん、木の実でしょうか、草の実でしょうか?」と、ききました。「やぶの中に生えている、なにかの木の実のようですね。」「これを土にうず・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・と、やはり銭を掌にのせて、見つめながら話していました。 少年は、黙ってそばに小さくなって、みんなの話をきいていましたが、脊の高いのが、「やい、小僧、おまえは、いくら今日もらってきたか。」と、大きな声でふいに尋ねました。 少年は、・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ 蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉しんだ。 また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと水が降りかかって、ピチピチと弾みきった肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 熱い餅を掌の上へ転がしながら、横堀は破れたズボンの上へポロポロ涙を落した。ズボンの膝は血で汚れていた。横堀は背中をまるめたままガツガツと食べはじめた。醜くはれ上った顔は何か狂暴めいていた。 私はそんな横堀の様子にふっと胸が温まった・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫