・・・青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭の花が咲いていた。少・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・そう言って御自分の財布から、すらりすらりと紙幣を抜き取り、そっと私に手渡した。 けれども新宿駅で私が切符を買おうとしたら、すでに嫁の姉夫婦が私たちの切符を買ってくれていたので、私にはお金が何も要らなくなった。 プラットホームで私は北・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ 百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、それから懐のなかへ片手をいれた。 ――汚い真似をするな。 私は身構えて、そう注意してやった。 懐から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ 田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布を前以て女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようの態度を装うのである。しかし、いままで、どの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。「さあ、何とでも言うがいい。」と佐伯は、ほんものの悪党みたいな、下品な口をきいたので、私は興醒めして、しきりに悲しかった。佐伯の隣りの椅子に、腰をおろして・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私は押入れから最後の一本を取り出して、彼に手渡し、よっぽどこのウイスキイの値段を知らせてやろうかと思った。それを言っても、彼は平然としているか、または、それじゃ気の毒だから要らないと言うか、ちょっと知りたいと思ったが、やめた。ひとにごちそう・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・帰りしなに、丸顔の看護婦さんが、にこにこ笑って、こっそり、もう一回分だけ、薬を手渡してくれた。私は、そのぶんだけのお金を更に支払おうとしたら、看護婦さんは、だまってかぶりを振った。私は早く病気をなおしたいと思った。 水上でも、病気をなお・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・ 妻は泣き叫ぶ子を、そのおかみさんに手渡しました。そのおかみさんの乳房からは乳がよく出ると見えて、子供はすぐに泣きやみました。「まあ、おとなしいお子さんですね。吸いかたがお上品で。」「いいえ、弱いのですよ。」 と妻が言います・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・ 先輩は笑いながら手文庫を持ち出し、しばらく捜して一通、私に手渡した。「恐喝は冗談だが。これからは気を附け給え。」「わかっています。」 以下は、その手紙の全文である。 ――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方・・・ 太宰治 「誰」
・・・ 彼女がその屋台を出て、電車の停留場へ行く途中、しなびかかった悪い花を三人のひとに手渡したことをちくちく後悔しだした。突然、道ばたにしゃがみ込んだ。胸に十字を切って、わけの判らぬ言葉でもって烈しいお祈りをはじめたのである。 おし・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫