・・・だが、盗癖ならばまず彼がその難をこうむるべき手近にいた。且つ近来、学校中で盗難事件はさらになかった。 下痢かなんかだろう。 安岡はそう思って、眠りを求めたが眠りは深谷が連れて出でもしたように、その部屋の空気から消えてしまった。 ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・それにいつでも生憎手近に巡査がいて、おれの頸を攫んで引っ立てて行きゃあがった。それから盲もやってみた。する事の無い職人の真似もしてみた。皆駄目だ。も一つ足なしになって尻でいざると云うのがあるが、爺いさん、あれはおめえやらないがいいぜ。第一道・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ みんなは、てんでにすきなえ物を持って、まず手近の狼森に行きました。 狼共は九疋共もう出て待っていました。そしてみんなを見て、フッと笑って云いました。「今日も粟餅だ。ここには粟なんか無い、無い、決して無い。ほかをさがしてもなかっ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・ カメラが、こういう青年層へ急激にひろがって行きつつある。手近で、集団的な生活に小さい愉しみをもたらす手段ともなるのであるから、地味な気質の勤労青年たちがカメラにひかれるわけも分る。午ごろ、お濠ばたを通りかかると一時間の休み時間を金のか・・・ 宮本百合子 「カメラの焦点」
・・・民衆一般が手近に分りやすく知り得ない諸事情の錯綜の結果、或は率直に闡明され得るなら分明となるはずのところをそれが出来ない事情があるため、一層ものごとが複雑になっているというような、二重の複雑が平凡な民衆の生活の思いよらぬ心持の隅にまで影響し・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
・・・某が刀は違棚の下なる刀掛に掛けあり、手近なる所には何物も無之故、折しも五月の事なれば、燕子花を活けありたる唐金の花瓶を掴みて受留め、飛びしざりて刀を取り、抜合せ、ただ一打に相役を討果たし候。 かくて某は即時に伽羅の本木を買取り、杵築へ持・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向って字をば読まずに、いよいよ胸の中に物思いの虫をやしなった。「『題知らず……躬恒……貫之……つかわしけ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そこでその手近な長椅子に探り寄った。そこへ腰を落ち着けて、途中で止めた眠を続けようと思うのである。やっと探り寄ってそこへ掛けようと思う時、丁度外を誰かが硝子提灯を持って通った。火影がちらと映って、自分の掛けようとしている所に、一人の男の寝て・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
寺田さんは有名な物理学者であるが、その研究の特徴は、日常身辺にありふれた事柄、具体的現実として我々の周囲に手近に見られるような事実の中に、本当に研究すべき問題を見出した点にあるという。ところで日常身辺の事実が示しているのは単に物理・・・ 和辻哲郎 「寺田寅彦」
出典:青空文庫