・・・と自分は答えたが、まだ余っている餌を、いつもなら土に和えて投げ込むのだけれど、今日はこの児に遺そうかと思って、 餌が余っているが、あげようか。といった。少年は黙って立ってこちらへ来た。しかし彼は餌を盛るべき何物をも持っていなかっ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・(うろついて、手にしているたくさんの紙片を、ぱっと火鉢に投げ込む。火焔ああ、これも花火。冬の花火さ。あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。玄関にて、「電報ですよ。どなたか、居りませんか・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やら呪文をとなえながら駈けめぐり駈けめぐり、駈けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消え・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 十幾年前にフィンランドの都ヘルジングフォルスへ遊びに行った時に私を案内して歩いたあちらの人が、財布から白銅貨のような形をした切符を出して、車掌というものの居ない車掌台の箱に投げ込むのを見た。つまらない事だが、私が今でもこの国この都を想・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・をかしげてみたりしている。紅葉の葉にはスペクトラムのあらゆる光彩が躍っている。しばらくじっと見ていたが、やっぱり天然の芸術は美しいと思った。この雀や紅葉の中へなら何時でも私の「私」を投げ込む事が出来る。「お前にはそれくらいものが丁度いい・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・五つ六つ拾うごとに、息をはずませて余のそばへ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くしてうれしそうな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかのすみからチラリ・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む。「そんな国に黒い眼、黒い髪の男は無用じゃ」とウィリアムは自ら嘲る如くに云う。「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・往来近いところは長い乱れた葦にかくされているが、向う側の小店の人間が捨てる必要のある総ての物――錆腐った鍋、古下駄から魚類の臓腑までをこの沼に投げ込むと見えアセチリン瓦斯の匂いに混って嘔吐を催させる悪臭が漲っている。 蒸気の艫へ、三人か・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・ 兄弟中で一番年嵩で、又、一番悪智恵にも長けて居る兄は、皆の顔を一順見渡してから、弟達に一つやる間に非常な速さで、自分の中に一つだけ余計に投げ込む。けれ共、その細い、やせた体の神経の有りとあらゆるものを、鍋の中に行き来する箸の先に集めて・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・それはただ自分の智慧が臆測の光を投げ込むに過ぎない底知れぬ深淵である。しかしその深淵のすみからすみまで行きわたっているある大いなる力と智慧との存在する事を、そうしてその力と智慧とが敏感な心に一瞬の光を投げることを否むわけに行かない。我々は不・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫