・・・彼が何々をしようと思うことは脳細胞の意志を刺戟しない部分を通って抜けてゆくのらしかった。結局彼はいつまで経ってもそこが動けないのである。―― 主婦はもう寝ていた。生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ帰った。そして硝子窓をあけて・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ばアさん、泣きの涙かなんかでかあいい男を新橋まで送ったのは、今から思うと滑稽だが、かあいそうだ、それでなくてあの気の抜けたような樋口がますますぼんやりして青くなって、鸚鵡のかごといっしょに人車に乗って、あの薄ぎたない門を出てゆく後ろ姿は、ま・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 中山服は、彼等を見ると、間が抜けたようにニタ/\と笑った。つゞいて、あとからも一人顔を出した。それも同じように間が抜けた、のんびりした顔でニタ/\と笑った。「何ンだい、あいつら笑ってやがら!」 今にも火蓋を切ろうとしていた、彼・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・自有レ銭という身分ではないから、随分切詰めた懐でもって、物価の高くない地方、贅沢気味のない宿屋を渡りあるいて、また機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置ない山寺なぞをも手頼って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州の或辺僻の山中へ入ってしまった・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・芝公園の中を抜けて電車の乗場のある赤羽橋の畔までも随いて来た。 お三輪も別れがたく思って、「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」 それを聞くと、お力は精気の溢れた顔を伏せて、眼のふち・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である。これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・鴉は羽ばたきもせず、頭も上げず、凝然たる姿勢のままで、飢渇で力の抜けた体を水に落した。そして水の上でくるくると輪をかいて流れて行った。七人の男は鴉の方を見向きもしない。 どこをも、別荘の園のあるあたりをも、波戸場になっているあたりをも、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・目を細くして見ていると、女はだんだん絵から抜けでて、自分の方へ近寄ってくるように思われる。 すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐っている。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私は自身のこの不安を、友人に知らせたくなかったので、懸命に佐吉さんの人柄の良さを語り、三島に着いたらしめたものだ、三島に着いたらしめたものだと、自分でもイヤになる程、その間の抜けた無意味な言葉を幾度も幾度も繰返して言うのでした。あらかじめ佐・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・三 この男はどこから来るかと言うと、千駄谷の田畝を越して、櫟の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、樫の大樹に連なっている小径――その向こうをだらだらと下った丘陵の・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫