・・・(ははあ、乞丐瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その膝の上へ、髯の長い頤をのせている。眼は開いているが、どこを見ているのかわからない。やはり、この雨に遇ったと云う事は、道服の肩がぐっしょり濡れているので、知れた。 李は、この老人を見た時・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉な不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」 ――そう思うと、彼は、俄に眼の前が、暗くなるような心もちがした。 勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟か・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・この故に念々頭々かの観音力を念ずる時んば、例えばいかなる形において鬼神力の現前することがあるとも、それに向ってついに何等の畏れも抱くことがない。されば自分に取っては最も畏るべき鬼神力も、またある時は最も親むべき友たることが少くない。 さ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 屈むが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。――「和郎はの。」「三里離れた処でしゅ。――国境の、水溜りのものでございまっしゅ。」「ほ、ほ、印旛沼、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・譲衣を撃つ本意に非ず 伍員墓を発く豈初心ならん 品川に梟示す竜頭の冑 想見る当年怨毒の深きを 曳手・単節荒芽山畔路叉を成す 馬を駆て帰来る日斜き易し 虫喞凄涼夜月に吟ず 蝶魂冷澹秋花を抱く 飄零暫く寓す神仙の宅 禍乱早く離る・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・女の写真屋を初めるというのも、一人の女に職業を与えるためというよりは、救世の大本願を抱く大聖が辻説法の道場を建てると同じような重大な意味があった。 が、その女は何者である乎、現在何処にいる乎と、切込んで質問すると、「唯の通り一遍の知り合・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・真に愛を人生に抱くなら、なぜ資本主義文明が、益々人間生活の不平等を造りつゝあるのに、黙止するのか。科学的精神を尊重するなら、この社会をより善くすることに於てのみ個人を善くする理義を弁えて、自己享楽を捨てようとはしないのか。 若し、現時の・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・ 親子の関係、夫妻の関係、友人の関係、また男女恋愛の関係、及び正義に対して抱く感情、美に対して抱く感激というようなものは何人にも経験のあることであって従って作中の人物に対して同感しまた其れに対して、好悪をも感ずるのであります。 芸術・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・しかし、私は髪こそ長かったが、社会主義の思想を抱く生徒ではなかった。 私はその思想を頭から軽蔑しているわけではなかったが、その思想を抱いている生徒は軽蔑していた。私のクラスにも自らそういう思想を抱いていると称する生徒がいたが、私はその生・・・ 織田作之助 「髪」
出典:青空文庫