・・・なつかしいという形のない心が、ことばの便りをからないで満足に抱合ができたからである。 お千代と省作との間に待ったとか待たないとかいう罪のない押し問答がしばらく繰り返される。身を傾けるほどの思いはかえって口にも出さず、そんな埒もなき事をい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・地上の熱度漸く下降し草木漸く萠生し那辺箇辺の流潦中若干原素の偶然相抱合して蠢々然たる肉塊を造出し、日照し風乾かし耳目啓き手足動きて茲に乃ち人類なる者の初て成立せし以来、我日本の帝室は常に現在して一回も跡を斂めたることなし。我日本の帝室は開闢・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・そうして、自然と抱合し自然に没入した後に、再び自然を離れて静観し認識するだけの心の自由をもっていた。 芭蕉去って後の俳諧は狭隘な個性の反撥力によって四散した。洒落風からは始めて連歌の概念を授けられ、太田水穂氏の「芭蕉俳諧の根本問題」から・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・』 若子さんが白い美しい手を、私の方へお伸しでしたから、私も其手につかまって、二人一緒に抱合う様にして、辛と放れないで待合室の傍まで行ったのでした。此処も一杯で、私達は迚も這入れそうもありませんでした。『若子さん、大層な人ですこと。・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・もとよりこの二流は、はじめより元素を殊にするものなれば、とうてい親和抱合すべからざるものと思わるれども、人事紛紜の際には思のほかなる異像を現出するものなり。近くその一例を示さん。 旧幕府の末年に、天下有志の士と唱うる人物の内には、真に攘・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫