・・・徳二郎はちょっと立ち止まって聞き耳を立てたようであったが、つかつかと右なるほうの板べいに近づいて向こうへ押すと、ここはくぐりになっていて、黒い戸が音もなくあいた。見ると、戸にすぐ接して梯子段がある。戸があくと同時に、足音静かに梯子段をおりて・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、膿や、便器の臭いが、まだ痛みの去らない鼻に襲いかゝった。 踵を失った大西は、丸くなるほど繃帯を巻きつけた足を腰掛けに投げ出して、二重硝子の窓から丘を下って行くアメリカ兵を・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・脚がぶくぶくにはれて、向う脛を指で押すと、ポコンと引っこんで、歩けない娘も帰って来た。病気とならない娘は、なか/\町から帰らなかった。 そして、一年、一年、あとから生長して来る彼女達の妹や従妹は、やはり町をさして出て行った。萎びた梨のよ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・客はなんにも所在がないから江戸のあの燈は何処の燈だろうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上から押すのですから、澪を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 独房の入口の左上に、簡単な仕掛けがあって、そこに出ている木の先を押すと、カタンと音がして、外の廊下に独房の番号を書いた扇形の「標示器」が突き出るようになっている。看守がそれを見て、扉の小さいのぞきから「何んだ?」と、用事をきゝに来てく・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・私たちの家では人を頼んで検印を押すだけに十日もかかった。今度の出版の計画が次第に実現されて行くことを私の子供らもよく知っていた。しかしそんなまとまった金がふところにはいるということを、私は次郎にも末子にも知らせずに置いた。 私は、「財は・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・呼鈴を押す。女中が出て来る。ばかなやつだな、役者になったからって、なにも、こんなにもったいぶることはない、と男爵は、あさましく思った。「坂井ですが。」 けばけばしいなりをして、眉毛を剃り落した青白い顔の女中が、あ、と首肯き、それから・・・ 太宰治 「花燭」
・・・しらじらしいほど、まじめな世紀である。押すことも引くこともできない。家へ帰り、私は再び唖である。黙って妻に、いくぶん軽くなった財布を手渡し、何か言おうとしても、言葉が出ない。お茶漬をたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中、イマハ浜、イ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・困って右を押すと、突然、闇が破れて扉があいた。室内が見えるというほどではないが、そことなく星明りがして、前にガラス窓があるのがわかる。 銃を置き、背嚢をおろし、いきなりかれは横に倒れた。そして重苦しい息をついた。まアこれで安息所を得たと・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・また女の捨てばちな気分を表象するようにピアノの鍵盤をひとなでにかき鳴らしたあとでポツンと一つ中央のCを押すのや、兵士が自分で投げた団扇を拾い上げようとしてそのブルータルな片手で鍵盤をガチャンと鳴らすのや、そういう音的効果もあまりわざとらしく・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫