・・・尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。が、その中でも目についたのは、欄干の外の見物の間に、芸者らしい女が交っている。色の蒼白い、目の沾んだ、どこか妙な憂鬱な、――」「それだけわかっていれば大丈夫だ。目がまわった・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からんだような言い振りで問いつめて行った。彼はこの場合、懐手をして二人の折衝を傍観する居心地の悪い立場にあった。その代わり、彼は生まれてはじめて、父・・・ 有島武郎 「親子」
・・・こう云ったのは褐色を帯びた、ブロンドな髪を振り捌いて、鹿の足のような足で立っている小娘である。 小娘は釣をする人の持前の、大いなる、動かすべからざる真面目の態度を以て、屹然として立っている。そして魚を鉤から脱して、地に投げる。 魚は・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。 しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。僕は朝飯前は書室を出ない。民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。「今の僕なら、君」と・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は全く一行をだも読まないで、何十年振りでまた読み返すとちょうど出稼人が都会の目眩しい町から静かな田舎の村へ帰ったような気がする。近代の忙だしい騒音や行き塞った苦悶を描・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・と答えて、軽く頭を振りました。 村人は、どうしたことかと心配でなりませんでした。 その明くる日、おじいさんは気分が悪くなって床につくと、すやすやと眠るように死んでしまいました。いいおじいさんをなくして、村人は悲しみました。そうして、・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・何しろこうしてお光さんのお酌で飲むのも三年振りだからな。あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ やがて軽井沢につき、沓掛をすぎ、そして追分についた。 薄暗い駅に降り立つと、駅員が、「信濃追分! 信濃追分!」 振り動かすカンテラの火の尾をひくような、間のびした声で、駅の名を称んでいた。乗って来た汽車をやり過して、線路を・・・ 織田作之助 「秋の暈」
出典:青空文庫