・・・しかしとにかく彼は私にとっては、あまりに複雑で、捉えることができないのだ。「そうかもしれないね。そして君は活きたものの、どこまでも活きて行く上の風々主義者だ。そして僕は死物の、亡者の風々主義者というわけだろう」私はすっかり絶望的な、棄鉢・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・橋までに捕えるつもりだった。 病気の身だった。それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。しかし流れがきつくて橋を力に上ろうと思ってもとうてい駄目だった。板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げな・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うという質の人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物の味が深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ プラタプの何よりの大望と云うのは、魚を捕えることでした。彼は此為には沢山の時間を無駄につぶし、殆ど毎日、昼から釣をしている姿の見えぬ事はありません。彼がスバーに一番ちょくちょく会ったのも斯うやって釣をする時でした。何をするにでも、プラ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・今なら難なくあの人を捕えることが出来ます。ああ、小鳥が啼いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。私がここへ駈け込む途中の森でも、小鳥がピイチク啼いて居りました。夜に囀る小鳥は、めずらしい。私は子供のような好奇心で・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 突然肩を捉えるものがある。 日本人だ、わが同胞だ、下士だ。 「貴様はなんだ?」 かれは苦しい身を起こした。 「どうしてこの車に乗った?」 理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。 「この車に乗っ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。 し・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・それにはイデオロギーの教養に無関係に世界の人間の心を捕えるものがなければならない。そうしてそれはロシア人にもフランス人にも日本人にも共通に通用するものでなければならない。そうだとすれば、それはまた必ずしも映画以来はじめて発明されたものではな・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・を捕えるトリックである。揶子の実の殻に穴をあけその中に少しの米粒を入れたのを繩で縛って、その繩の端を地中に打ち込んだ杭につないでおく。猿がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄に自分で一・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・瞬間に過ぎ去るような現象を捕えるのにはやはり「水ぎわまでの間に敵を仕留める」呼吸を要するであろう。またそういう瞬間的な現象でなく持続的な現象でもそれが複雑に入り組んだものである場合にその中から一つの言明を抽出するのはやはり一つの早わざである・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
出典:青空文庫