・・・挙式の費用など、てんで、どこからも捻出の仕様が無かったのである。当時、私は甲府市に小さい家を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日に普段着のままで、東京のその先輩のお宅へ参上したのである。その先輩のお宅で嫁と逢って、そうして先輩から、お・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ただこの概念の変化によって新しい事実の発見されるごとに一々新しい方則を捻出する事が避けられるのである。 一口に方則とは云うものの物理の方則でも色々の種類がある。フックの方則、ボイルの方則などのように適用の範囲の明白に限定されているものも・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・活殺生死の乾坤を定裏に拈出して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・――同時に火の消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈出した。額を撫でると膏汗と雨でずるずるする。余は夢中であるく。 坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・いずれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従って拈出したるは蕪村の力なり。ただ漢語を用い、いたずらに佶屈の句を作り、もって蕪村の真髄を得たりとなすもの、いまだ他の半面を解せざるべし。俗語 の最俗なるものを用い初めたるもまた蕪村な・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・その税を、どういう懐の中から捻出してゆかなければならないかといえば、千八百円ベースあるいは二千四百円ベースの家計の中からです。通勤・通学のための交通費のおそろしいはね上り、またこの夏から一段とひどくなった諸物価のはねあがり。婦人靴下一足千何・・・ 宮本百合子 「婦人大会にお集りの皆様へ」
・・・予が久しく鴎外漁史という文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出せられて一驚を喫したのもこれがためである。然るに昨年の暮におよんで、一社員はまた予をおとずれて、この新年の新刊のために何か書けと曰うた。その時の話に、敢て注文する・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫