・・・姉は上眼を使いながら、笄で髷の根を掻いていたが、やがてその手を火鉢へやると、「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」 洋一は襖側に立ったなり、緩んだ帯をしめ直していた。どん・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟外の枯柳をながめながら、片手で、しきりに髪を掻いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹しないと・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・――泰さんは苦笑しながら、その蛇の目を受取ると、小僧は生意気に頭を掻いてから、とってつけたように御辞儀をして、勢いよく店の方へ駈けて行ってしまいました。そう云えば成程頭の上にはさっきよりも黒い夕立雲が、一面にむらむらと滲み渡って、その所々を・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・芸当というのは、別荘の側で、後脚で立ち上がって、爪で入口の戸をかりかりと掻いたのであった。最早別荘は空屋になって居る。雨は次第に強くふって来る。秋の夜長の闇が、この辺を掩うてしまう。別荘の周囲が何となく何時もより広いような心持がする。 ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ そこで、欄干を掻い擦った、この楽器に別れて、散策の畦を行く。 と蘆の中に池……というが、やがて十坪ばかりの窪地がある。汐が上げて来た時ばかり、水を湛えて、真水には干て了う。池の周囲はおどろおどろと蘆の葉が大童で、真中所、河童の皿に・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ ベソを掻いて、顔を見て、「御免なさい。御免なさい。父さんに言っては可厭だよ。」 と、あわれみを乞いつつ言った。 不気味に凄い、魔の小路だというのに、婦が一人で、湯帰りの捷径を怪んでは不可い。……実はこの小母さんだから通った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 女房は手拭を掻い取ったが、目ぶちのあたりほんのりと、逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」「そり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印譜散らしの渋い緞子の裏、一本筋の幅の詰まった紺博多の帯に鉄鎖を絡ませて、胡座を掻いた虚脛の溢み出るのを気にしては、着物の裾でくるみくる・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・匝れば匝られるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足踏込で躁って藻掻いているところを、ヤッと一撃に銃を叩落して、やたら突に銃劔をグサと突刺すと、獣の吼るでもない唸るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・なるほどそんな風に考えたのか、火鉢の傍を離れて自分はせっせと復習をしている、母や妹たちのことを悲しく思いだしているところへ、親父は大胡座を掻いて女のお酌で酒を飲みながら猿面なぞと言って女と二人で声を立てて笑う、それが癪に障ったのはむりもない・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫