・・・定罰のような闇、膚を劈く酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることができる。歩け。歩け。へたばるまで歩け」 私は残酷な調子で自分を鞭打った。歩け。歩け。歩き殺してしまえ。 その夜晩く私は半島の南端、港の船着場・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・驢馬の長い耳に日がさして、おりおりけたたましい啼き声が耳を劈く。楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ずっと右手に続いた杉林の叢の裡では盛に轡虫が鳴きしきり、闇を劈くように、鋭い門燈の輝きが、末拡がりに処々の夜を照して居る。 父上は、まだ帰って居られなかった。いつもの正面の場処から、母が、隔意のある表情で、「いらっしゃい」と軽く・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
出典:青空文庫