・・・それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁の山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。 峻が北牟婁へ行ったのは、その事件の以前であった。お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 木村はその後二月ばかりすると故郷へ帰らなければならぬ事になり、帰りました。 そのわけはなんであろうか知りませんが、たぶん学資のことだろうと私は覚えています。そして私には木村が、たといあの時、故郷に帰らないでも、早晩、どこにか隠れて・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 彼は法難によって殉教することを期する身の、しきりに故郷のことが思われて、清澄を追われて十三年ぶりに故郷の母をかえりみた。父は彼の岩本入蔵中にみまかったのでその墓参をかねての帰省であった。「日蓮此の法門の故に怨まれて死せんこと決定也・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・さればとて故郷の平蕪の村落に病躯を持帰るのも厭わしかったと見えて、野州上州の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲の風に漂い、秋葉の空に飄るが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子の大洋傘に色・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・先生は又、あの塾で一緒に仕事をしている大尉が土地から出た軍人だが、既に恩給を受ける身で、読みかつ耕すことに余生を送ろうとして、昔懐しい故郷の城址の側に退いた人であることを話した。「正木さんでも、私でも――矢張、この鉱泉の株主ということに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 娘の唖な事を隠して他人の手に引渡して、スバーの両親は故郷に帰って仕舞いました。有難いことです! 斯うやって彼等は親の務めを兎に角済ませたから、スバーの親達には此世の幸福と天国の安らかさが、真個に与えられると云うのでしょうか。花婿の仕事・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
八年まえの事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ * * * 銀行員は遠く、いよいよ遠く故郷の空を離れて、見馴れぬ物という物を見て歩く。言い附けられた事は、きちんきちんとする。それ程込み入って、覚えていにくいような事ではない。言語挙・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・どこまで行ったらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷のいさご路、雨上がりの湿った海岸の砂路、あの滑らかな心地の好い路が懐しい。広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくな・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。 故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が翻れて、もうあとは書けない。さらばよ。我がロシア。附言。本文中二箇所の字句を改刪してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支え・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫