・・・マッチのペーパーや広告の散らし紙や、女の子のおもちゃにするおすべ紙や、あらゆるそう云った色刷のどれかを想い出させるような片々が見出されて来た。微細な断片が想像の力で補充されて頭の中には色々な大きな色彩の模様が現われて来た。 普通の白地に・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・そうだという返答をたしかめてから後に悠々と卓布一杯に散々楽書をし散らして、そうして苦い顔をしているオーバーを残してゆるゆる引上げたという話もある。 ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・塊まらぬ間に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描いて、黒塗に蒔絵を散らした筒の周囲を遶る。あるものは緩く、あるものは疾く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、ただ日々嬉戯して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美くしい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・即ち私の心的要素を種々の事情の下に置いて、揉み散らし、苦め散らし、散々な実験を加えてやろう。そしたら、学術的に心持を培養する学理は解らんでも、その技術を獲ることは出来やせんか、と云うので、最初は方面を撰んで、実業が最も良かろうと見当を付けた・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ひどい勢いで紙とさんが燃え上る明りの前で、勇吉夫婦が足元も定らず入りみだれて影を黒くわめき散らしている。勘助は、あわてて荷を出そうとどよめいているのだと思った。がよく見ると、何事だろう! 勇吉夫婦は酔っ払った上互に狂人のように悪態をつき合な・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・様子は変っていても、こんな静かな、同じことを繰り返すような為事をするには差支えなく、また為事がかえって一向きになった心を散らし、落ち着きを与えるらしく見えた。姉と前のように話をすることの出来ぬ厨子王は、紡いでいる姉に、小萩がいて物を言ってく・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・その時馬がたちまち駆歩になって、車罔は石に触れて火花を散らした。ツァウォツキイは車の小さい穴から覗いて見た。馬車は爪先下りの広い道を、谷底に向って走っている。谷底は薔薇色の靄に鎖されている。その早いこと飛ぶようである。しばらくして車輪が空を・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・二人の争いは、トルコの香料の匂いを馥郁と撒き散らしながら、寝台の方へ近づいて行った。緞帳が閉められた。ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎に脹れ上って揺れていた。「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・かくて波を蹴散らし、足をそろえ、声を合わせて舟を砂の上に引きずり上げて行く。 一艘上がるとともに、舟にいた若者たちは直ちに綱を取って海に向かった。次の一艘が磯波に乗り掛かると、ちょうど綱を荒れ回る鹿の角に投げ掛けるように、若者は舟へ綱を・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫