・・・それから僻目かも知れないが、先生を訪問しても、先生によっては閾が高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さく・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・ 彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、ふつぜんとして怒り莞爾として笑いしその有様を回想すれば、正にこれ火打箱の隅に屈伸して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・暗の閾から朧気な夢が浮んで、幸福は風のように捕え難い。そこで草臥た高慢の中にある騙された耳目は得べき物を得る時無く、己はこの部屋にこの町に辛抱して引き籠っているのだ。世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴だと思っているのだ。(家・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・(急いで出ようとして敷居に蹶「あぶないぞナ。」「なに大丈夫サ、大丈夫天下の志サ。おい車屋、真砂町まで行くのだ。」「お目出とう御座います。先生は御出掛けになりましたか。」「ハイ唯今出た所で、まア御上りなさいまし。」「イヤ今日は急いでいるか・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ 筒袖絆纏を着た六十ばかりの神さんが、四畳の方の敷居の外からそのような挨拶をした。陽子は南向きの出窓に腰かけて室内を眺めているふき子に小さい声で、「プロフェッショナル・バアチャン」と囁いた。ふき子は笑いを湛えつつ、若々しい眼尻で・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・何の手入もしないに、年々宿根が残っていて、秋海棠が敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿の生垣で、垣の内側には疎らに高い棕櫚が立っていた。 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、先ずこの三畳で煎茶・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 戸が開いて、閾の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。 ツォウォツキイにはそれが自分の娘だということがすぐ分かった。「なんの御用ですか」と、娘は厳重な詞附きで問うた。 ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・彼はそのまま、帰ろうと思って敷居の外へ出かけると、「秋公帰ぬのか?」と安次が訊いた。「もう好えやろが。」「云うてくれ、云うてくれ。」「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」「こらこら、俺・・・ 横光利一 「南北」
・・・我々は北極の閾の上に立って、地極というものの衝く息を顔に受けている。 この土地では夜も戸を締めない。乞食もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷のドイツなどと・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って待合室の中を見た。明るい所から暗い所に這入ったので、目の慣れるまではなんにも見えなかった。次第に向側にある、停車場の出口の方へ行く扉が見えて来る。それから、背中にでこぼこのある獣のようなものが見えて・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫