・・・式を挙げるに福沢先生を証人に立てて外国風に契約を交換す結婚の新例を開き、明治五、六年頃に一夫一婦論を説いて婦人の権利を主張したほどのフェミニストであったから、身文教の首班に座するや先ず根本的に改造を企てたのは女子教育であった。 優美より・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・それだのに我国の文教の枢府ではこの事実に無神経である。 映画などは不良少年少女の見るものであるといったような時代放れのした気持が、いわゆる教育家や、特に真面目な中堅人士の間にいくらかでも残っている間は教育映画の時代は廻って来ないであろう・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・かつまた、文脩まれば武備もしたがって起り、仏人、牆に鬩げども外その侮を禦ぎ、一夫も報国の大義を誤るなきは、けだしその大本、脩徳開知独立の文教にあり。今我邦に私塾を立つるも、この趣意を達せんとするなり。その得、五なり。 右所論の得失を概し・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・このPTAの成功は、文教地区を道徳的に清潔に保つことを政府に理解させた。このPTAの親たちは、みんな子供の将来について、人間らしい豊かさ、正しく生きる者を育てたいという希望を抱いている人々である。親としてのそういう希望が、まちがっていないこ・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・ 慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康の新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫