・・・ ずっと裏の松林の斜面を登って行くと、思いがけなく道路に出た。そこに名高い花月園というものの入口があった。どんなにか美しいはずのこんもりした渓間に、ゴタゴタと妙な家のこけら葺の屋根が窮屈そうに押しあっているのを見下ろして、なるほどこうし・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・野辺地の浜に近い灌木の茂った斜面の上空に鳶が群れ飛んでいた。近年東京ではさっぱり鳶というものを見たことがなかったので異常に珍しくなつかしくも思われた。のみならず鳶のこのように群れているということ自身も珍しい。おそらく下には何かよほど豊富な獲・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・いわゆる原っぱへ出ると、南を向いた丘の斜面の草原には秋草もあれば桜の紅葉もあったが、どうもちょうどぐあいのいい所をここだと思い切りにくいので、とうとうその原っぱを通り越して往還路へおりてしまった。道ばたにはところどころに赤く立ち枯れになった・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・多分七、八歳くらいの自分と五、六歳くらいの丑尾さんとが門前のたたきの斜面で日向ぼっこをしていた。自分が門柱にもたれてぼんやり前の小川を眺めていたとき丑尾さんが自分の正面に立ってしばらく自分の顔を見詰めていたようであったが、真に突然に、その可・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・至るところの谷や斜面には牧場が連なり、りんごが実って、美しい国だと思いました。 それからストラスブルクを見て、ニュルンベルクへ参りました。中世のドイツを見るような気がしておもしろうございました。市庁の床下の囚獄を見た時は、若い娘さんがラ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・土堤の斜面はひかげがこくなり、花をつけた露草がいっぱいにしげっている。 つれの、桃色の腰巻をたらして、裾ばしょりしている小娘の方が、ときどきふりかえって三吉の方をにらむ。くろい、あごのしゃくれた小さい顔は、あらわに敵意をみせていた。女は・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃もあんなに青くふるえているし・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・傍から、忠一も顔を出し、暫くそれを見ていたと思うと、彼はいきなりくるりとでんぐり返りを打って、とろとろ、ころころ砂の斜面を転がり落ちた。「ウワーイ」 悌が手脚を一緒くたに振廻してそのあとを追っかけた。けろりとして戻って来ながら、・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 新らしい私の部屋新らしい六畳の小部屋わたしの部屋正面には清らかな硝子の出窓をこえて初春の陽に揺れる松の梢や、小さな鑓飾りをつけた赤屋根の斜面が見える。左手には、一間の廊下。朝日をうけ、軽らかな・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ 私は眼をあげて、隣家の屋根の斜面に、ころころとふくれて日向ぼっこをして居る六七羽の雀の姿を見た。或ものは、何もあろうと思われない瓦の上を、地味な嘴でつついて居る。 暫く眺めて後、私は、箱に手を入れて一掴みの粟を、勢よく、庭先に撒い・・・ 宮本百合子 「餌」
出典:青空文庫