・・・わざわざ旅費を出して幾日も汽車を乗り回す必要などはないように思われる。しかしどうもこの東京の街頭に画架をすえて、往来の人を無視してゆっくり落ち着いて、目を細くしたり首をひねったりする勇気は――やってみたら存外あるかもしれないが、考えてみただ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・「わしが死んでも、たかい旅費つこうてもどってこんでもええが、おとっさんが死んだときゃあ、もどってきておくれなァ」 三吉はうなずいた。うなずきながら歩きだした。途中でも、まだ見おくってるだろう母親の方をふりむかなかった。――土堤道の杉・・・ 徳永直 「白い道」
・・・その上旅費は奇麗に折半されるんだから、愚の極だ」「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇の噴火口を見る事ができるだろう」「可愛想に。一人だって阿蘇ぐらい登れるよ」「しかし華族や金持なんて存外意気地がないもんで……」「また身代りか・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・商売の景気を探らんために奔走する者は多けれども、子を育するの良法を求めんためにとて、百里の路を往来し、十円の金を費やしたる者あるを聞かず。旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕の思案を費・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」貝の火兄弟商会の、鼻の赤いその支配人は、ねずみ色の状袋を、上着の内衣嚢から出した。「そうかね。」大学士は別段気にもとめず、手を延ばして状袋をさらい、自分の衣・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ある、私が牛を食う、摂理で善である、私が怒ってマットン博士をなぐる、摂理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事で神のみ旨は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげる、大へんよろしい、・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・――国を出ます時、友達にあずけて旅費をかりましたもんでございますから」 暫く沈黙の後、さほ子は傍に見ている千代に云った。「家ではね。お料理は簡単なのよ。だからどうかすぐ覚えて自分でやれるようにして頂戴。今こしらえるのはね」 彼女・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・「ま、何せ、旅費位、どうでもなるんやさかい、 ほんにいんどくなはれな。 今、十五六円ばかり、すっかりで、ありまっさかい。そい持ってお行きやはったら、ようおっしゃろ。 仕事の手間や何かで、私など、どうでもして行かれまっから・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・四月の初にF君が来て、父の病気のために帰省しなくてはならぬから、旅費を貸して貰いたいと云った。幾らいるかと云えば、二十五円あれば好いと云う。私はすぐに出してわたした。もう徼幸者扱にはしなかったのである。この金の事はその後私も口に出さず、君も・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・ややありて旅費を求めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所へゆきし一瀬が跡追いてゆかんに、旅費なければこれを獲ぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕いしのみにて、夜な夜な撃剣のわざを鍛いぬ。任所にては一瀬を打つ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫