・・・ 白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆる・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している…… これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた堀留あたりを親父橋の方へと、商家の軒下の僅かなる日陰を択って歩いて行った時、あたりの景色・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現て来てい・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ 本をひろげて冕の図や日蔭のかずらの編んである図などを見た。それについてまた簡単な趣味と複雑な趣味との議論が起った。 夜が更けて熱がさめたので暇乞して帰途に就いた。空には星が輝いて居る。 夜は見るものがないので途が非常に遠いよう・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・藪だ。日陰だ。山吹の青いえだや何かもじゃもじゃしている。さきに行くのは大内だ。大内は夏服の上に黄色な実習服を着て結びを腰にさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。急にけわしい段がある。木につかまれ木は光る。雑木は二本雑木が光る。・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ぽっくりと一人白い軽い外套を羽織った女がその海岸通の並木路の日蔭の間に立って片手を高くあげながらむこうを通ってゆく汽船に挨拶を送っている。 カメラは高い高い左手の上からその光景を俯瞰している。近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低く・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
・・・るで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない――ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに遺っている過去の、殆ど習性にさえ成った日蔭の依頼主義の底力に押されて、非常に微・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・を経て「日蔭の村」を描きやがてこの「結婚の生態」を書くにいたった今日までの足どりは、一個の男が世相の間に次から次へと押し流されつつある跡として、そこに惨憺たるものがある。「蒼氓」はおそらくこの作者が文学としていいものを書きたいと欲して力・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
・・・農家の防風林で日陰になっている畑の畔などにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつのまにか消滅してしまった。杉苔を育てるのはむずかしいと承知しているから、二度とは試みなかった。ところが五、六年前、・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫