・・・露に濡羽の烏が、月の桂を啣えたような、鼈甲の照栄える、目前の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件の大革鞄を忘れていた。 何と、その革鞄の口に、紋着の女の袖が挟っていたではないか。 仕・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・手首に冴えて淡藍が映える。片手には、頑丈な、錆の出た、木鋏を構えている。 この大剪刀が、もし空の樹の枝へでも引掛っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにう・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・此んなに家の富栄えるのも元はと云えば私が智慧をつけたからじゃあありませんか」と折々大事を云い出してはおびやかすので自分の子ながらもてあまして居た。或る時自分で男を見つけて「あの人ならば」と云ったのでとにかく心まかせにした方がと云って人にたの・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・国家が栄えれば自然国民も栄えるからです。国家が強く富まなければ、国民は、決して幸福になれよう筈がない。お母さんは、その心掛けで、子供を教育しなければなりません。先ず、学問よりは体の健康が第一です。ある学科が不出来だからといって、必ずしもやか・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・そして、日本の文芸にはこの紋切型が多すぎて、日本ほど亜流とマンネリズムが栄える国はないのである。 私はかねがね思うのだが、大阪弁ほど文章に書きにくい言葉はない。たとえば、大阪弁に「そうだ」という言葉がある。これは東京弁の「そうだ!」と同・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・人がもし壮年の時から老人の時まで、純然たる独身生活すなわち親子兄弟の関係からも離れてただ一人、今の社会に住むなら並み大抵の人は河田翁と同様の運命に陥りはせまいか、老いてますます富みかつ栄えるものだろうか。 翁の子敬太郎は翁とまるきり無関・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。」窓は答える筈はなかった。 嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇して、ひたと両手合せた。祈る姿であ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・現在のチューインガムも、それが噛み尽されて八万四千の毛孔から滲み出す頃には、また別な新しい日本文化となって栄えるのかもしれないのである。 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・先ず普通は眼前の作品を与えられた具体的の被与件として肯定してから相対的の批評で市が栄えるとしたものであろう。 芸術の技巧に関する伝統が尊重された時代には、芸術の批評権といったようなものは主に芸術家自身か、さもなくば博学な美術考証家の手に・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・ いかにオリジナルな変異の産物でも当代の多数の観賞者が見てちっともおもしろくなかったり、ひとり合点で意味のわからないようなものは、わざわざ勦絶に骨を折らなくても当代の環境で栄えるはずはないであろう。全く死滅しないまでも山椒魚か鴨の嘴のよ・・・ 寺田寅彦 「俳句の型式とその進化」
出典:青空文庫